越の修武録 令和編

上地流空手道宗家直系春日山修武館 令和元年からの活動記録です。

皮籠原

イメージ 1

イメージ 2

 ここもブームになる前に行っておきたくて、強行スケジュール(家→新潟→会津→白河→那須→佐野→太田→藤岡→佐久→長野→家の一日730km)で行ってきた。関ヶ原前、会津に拠る上杉が徳川との決戦場と予定したところ。
 この時期が戦国上杉家の存在がもっとも頂点にたっした時期だろう。天下の大軍が自分に向かってくる興奮はいかばかりだっただろうか。
 天正10年、魚津で織田軍と対峙したときは、滅亡を覚悟の悲壮な覚悟であったであろうが、18年を経た慶長5年のこの時は、天下の大軍を打ち破る気概で待っていたのだから、この時の上杉景勝直江兼続以下軍勢の気概を想うと興奮せずにはいられない。
 写真は景勝が指揮をとった長沼城本丸と皮籠原


 感想
 宇都宮と白河は距離がありすぎて、家康には、はなから上杉と戦う気はなかったように思えた。
 天地人は日報で連載されている時に読んだが、大河として放送されることにより、作家が依怙にかっこづけしたドラマが、歴史として認識されるのが嫌だな。