旗持城(旧米山町)柏崎(かしわざき)側からの遠景
以下、御館の乱における旗持城の記録。
天正六年九月二十六日、猿毛城将とともに北条景広が北条へ帰るのを阻止。
三月十七日、御館落城。
日本海の荒波と寒風が吹きつける厳しい環境と鋭い旗持城の山容は、数ある越後の山城の中でも私の心を惹きます。新潟や長岡からの帰路、天候によっては、山頂へと登る古道が浮き上がって見える日があります。その都度、一人で心わくわくしています。
この二城の確保がなければ、景勝の御館の乱勝利はなかったと思います。
猿毛城(旧柿崎町かきざき)遠景。城ノ腰集落から、一筋の道が這い上がる。
信旗下の猛将、柿崎景家の柿崎氏の詰めの城。小村峠を扼し、旗持城と共に頚城地方と中越地方を結ぶ関門。柿崎氏は平素、柿崎城(現柿崎IC横)に居住し、猿毛を詰めの城としたとされる。頚城村舟津も柿崎氏の支配地であり、柿崎軍を支える旧柿崎町、大潟町、頚城村の湖沼地帯の水上輸送の運上は相当なものであったであろうと思う。謙信をはじめ景家ほか越後の猛将とされる武将は、土地を支配する旧制の封建領主であるだけでなく、商業支配に卓越していた者が経済的に裏付けされた軍備を整えることができたのではないだろうか。
御館の乱では、当初景虎方の篠宮出羽守が籠っていたが、柿崎氏旧臣上野九兵衛尉らが景勝方に与し、柿崎旧臣同志討ちの末に景勝方が占拠。上野九兵衛尉が城将となる。旗持城とともに御館と柏崎地方の連絡を分断する。
上野九兵衛尉は柿崎家再興を賭けるためか働きが凄い。
以下、御館の乱における猿毛の記録。
同年二月十八日、景勝より、応化(直江津関川河口)へ陣し、錦要害から御館への兵糧輸送遮断するよう命じられる。
同年三月七日、町田城(旧吉川町)を攻略。景勝より戦功を誉められ、御館攻撃に加わるよう要請される。
三月十七日、御館落城。
北条城(柏崎市)遠景。
謙信重臣北条高広の居城。天文二十三年十二月武田に通じ、謙信に攻められたこともある。
城下の北条毛利氏の居館跡。
城山の裾には、寺院、家臣屋敷街を想わせる北条高広時代の町割りが残ります。