越の修武録 令和編

上地流空手道宗家直系春日山修武館 令和元年からの活動記録です。

旗持城、猿毛城、北条城、雁金城、錦要害遠景

イメージ 1
旗持城(旧米山町)柏崎(かしわざき)側からの遠景
 米山峠を扼し、上越頚城地方と中越柏崎地方を結ぶ重要関門。現在も北陸道のトンネルが山腹を通る。また、日本海にも面し、海上にも睨みをきかせることができる。 
 御館の乱では、景勝方が佐野清左衛門尉が立てこもり、猿毛城と共に、御館と景虎方の重要武将北条高広・景広親子の本拠地柏崎北条を分断し、景勝方勝利の重要な要因となった。
 
 以下、御館の乱における旗持城の記録。
 天正六年九月二十六日、猿毛城将とともに北条景広が北条へ帰るのを阻止。
 天正七年二月十一日、米山峠を敗走する景虎軍を撃破。
 同年三月三日、琵琶島(柏崎)城将前島修理亮が御館へ海上輸送しようとした食料を奪い、水夫船頭の首を斬る。   三月四日、琵琶島城、上条城を攻撃し御館を孤立させる。
   三月十七日、御館落城。
 
 日本海の荒波と寒風が吹きつける厳しい環境と鋭い旗持城の山容は、数ある越後の山城の中でも私の心を惹きます。新潟や長岡からの帰路、天候によっては、山頂へと登る古道が浮き上がって見える日があります。その都度、一人で心わくわくしています。 
イメージ 7
 地図で位置関係を示すとこんな感じです。旗持、猿毛の二城を景勝方が確保したことで、御館ー北条が米山のラインで分断されています。その下の直峰ー犬伏を経て関東へ繋がる道は景勝方が押さえていますので、御館と景虎の実家である関東北条氏との連携も分断されます。雁金城が重要ではないこともわかります。
 この二城の確保がなければ、景勝の御館の乱勝利はなかったと思います。 
イメージ 8
 
イメージ 9
猿毛城(旧柿崎町かきざき)遠景。城ノ腰集落から、一筋の道が這い上がる。
 信旗下の猛将、柿崎景家の柿崎氏の詰めの城。小村峠を扼し、旗持城と共に頚城地方と中越地方を結ぶ関門。柿崎氏は平素、柿崎城(現柿崎IC横)に居住し、猿毛を詰めの城としたとされる。頚城村舟津も柿崎氏の支配地であり、柿崎軍を支える旧柿崎町、大潟町、頚城村の湖沼地帯の水上輸送の運上は相当なものであったであろうと思う。謙信をはじめ景家ほか越後の猛将とされる武将は、土地を支配する旧制の封建領主であるだけでなく、商業支配に卓越していた者が経済的に裏付けされた軍備を整えることができたのではないだろうか。
 柿崎景家織田信長への謀反を疑われ謙信に誅されたとされる説が一般にあるが、そうだろうか(私は違うと思う)。柿崎家の混乱はまたの機会に。
 御館の乱では、当初景虎方の篠宮出羽守が籠っていたが、柿崎氏旧臣上野九兵衛尉らが景勝方に与し、柿崎旧臣同志討ちの末に景勝方が占拠。上野九兵衛尉が城将となる。旗持城とともに御館と柏崎地方の連絡を分断する。
 上野九兵衛尉は柿崎家再興を賭けるためか働きが凄い。
 
 以下、御館の乱における猿毛の記録。
 天正七年正月、景虎が上野九兵衛尉を味方に誘うが、九兵衛尉は応じず、使者を斬る。ついで島の塁(旧三和村)を攻略。
  同年二月十八日、景勝より、応化(直江津関川河口)へ陣し、錦要害から御館への兵糧輸送遮断するよう命じられる。
  同年三月七日、町田城(旧吉川町)を攻略。景勝より戦功を誉められ、御館攻撃に加わるよう要請される。
     三月十七日、御館落城。
 
 上野九兵衛尉は、後、天正十年九月、新発田重家との放生橋の戦いで討死する。
 
イメージ 2
北条城(柏崎市)遠景。
謙信重臣北条高広の居城。天文二十三年十二月武田に通じ、謙信に攻められたこともある。
イメージ 3
城下の北条毛利氏の居館跡。
城山の裾には、寺院、家臣屋敷街を想わせる北条高広時代の町割りが残ります。
 
イメージ 4
雁金城(旧頚城村)遠景。
 天正六年六月十七日、景勝は「九戸の要害(旧大潟町)ハ、従其元成共かかへ可然候、花か崎(雁金城のこと)ハいらさる事ニ候条」 と、吉益伯耆守・佐藤平左衛門・長尾右京に命じ、放棄させた。
 
イメージ 5
錦要害(旧三和村)
イメージ 6
錦要害の堀の跡
wataなべ君家の近く。
 
錦要害の先は、大間城、直峰、峠、室野、松代、犬伏へと、関東遠征への道が続きます。
 
 参考文献 図説中世の越後(大家健著)、上杉謙信とその風土(室岡博著)、中世越後の歴史(花ヶ前盛明著)